HOME
ごあいさつ

平成19年9月16日

真夏の台風直下の学会講演』                       

 

昨年から、眼病の解説書を出すようになり、また、今年から、母校の大学との研究も始めるようになってから、他の学会からも、招待講演の話も頂けるようになった。

過日には、日本臨床細胞学会から7月14日の九州ブロック総会での招待講演のお誘いを頂いた。「いつも顕微鏡での仕事をされる医師やスタッフの方々に、眼に良い生活習慣や栄養療法について、約1時間の講演をして頂きたい。」と言われ、すぐに快く引き受けることにした。

平素の講演会などで質問する時も、まず最初に手を挙げてから、質問内容を考えるといういつもの性格からか、直前にならないと気合いが入らない。しかし、恩師の井上治郎博士のご教示を糧とし、講演のストーリーの展開をあれこれ考えながら、スライドの原稿を、少しずつ頭の中で練りあげ、スライド校正も、いつも通り1週間前までに終えることができた。4日前には「予演会」も無事に終了し、準備万端で、アシスタント役の友人と、当日は意気揚々と入鹿する予定だった。

しかし、予演会を無事に終えた翌日から、台風4号が講演当日の午後に鹿児島を直撃するとの情報が入り、愕然としたのはご想像の通りである。学会が中止になるのか、事前に事務局に問い合わせても、平然と「予定通り行う予定です。宜しければ、宿の手配をするので、演者の先生は、前日までに入鹿して下さい。」と言う。このため、日帰りでの講演を諦め、前日の診療を終えてから、夜半前に「つばめ」で入鹿し、城山のホテルに泊まることにした。

鹿児島に入ると、雨風も少しずつ強くなっているのを察したが、翌日目を覚ますと、やはり台風4号が直撃の様相を呈していた。

講演は、同日午後2時で、台風が最も接近する時間帯であった。

朝から、温泉で体を温め、講演原稿を繰り返し読みながら、一通りの最終校正を終えると、講演前にいつも行う儀式として、数十分のジョギングをすることにした。屋外はすでに嵐の様相を呈して不可能なので、広いホテルのフロアを往復しながら、いつものスウェットウエアでのジョギングで、心地よい汗を流し、リフレッシュすることができた。

そういえば、家内との出会いの地・横浜での学位研究の講演の時も、二人でよく訪れた「港見える丘公園」を走ったものである。

台風の中、予定通り昼過ぎに、県民交流センターの巨大な学会場に到着すると、手厚くおもてなしを受けた。

まるで、お殿様気分だ。参加者予定数は、医師と医療関係者を含め、約400名とのことであったが、当日は、JR、高速バス、航空機、そして、船舶が、共にすべて運休のため、約100名程度の聴衆であったが、会場内では、予定通り何もなかった様に行われているのが、かえって驚きであった。

そして、いつも通り、自分の持ち味を生かしながら、大きな声で解りやすく楽しく講演を終えることできた。

私の学会講演のルーツは、小学校2年生の夏休みの研究発表にさかのぼる。

両親の心遣いで、愚息が将来、学会講演をする際に困らないようにと、学会発表の手ほどきをしてくれたのであった。

そして、小2の時の研究発表で、金賞が取れなかった事もあり、小3になると発表前には、父親に連れられて、街を見下ろす小高い山の山中での発声練習を半日かけて行った。木々の間から見える初秋の萩の静かな街並みと蒼いコバルト色に輝く日本海が、まだ瞼に残っている。

そして、発表会の直前には、確実に暗唱するまで、飽きる程、発表原稿を音読させられた。

さすがに、原稿の暗唱には、子供心に辛いものがあった。遊び盛りの頃に、「どうして、なぜ自分だけ?」という思いが断ち切れずに、原稿の文字が涙でにじんで見える事もあった。しかし、そのお蔭か、今までの講演で“あがった”ことは一度も経験していない。

そんな遠い記憶と共に、講演終了後に、感謝状を頂いた時の気持は、まるで、かつての全校マラソンで優勝した時の表彰台の気分だった。そして、学会後の懇談会も、台風の余波などもろともせず、大勢が楽しく参加してとり行われた。最後には、「おはら節」を老若男女全員で踊り、楽しく閉会に至った。

学会発表の中での苦労は色々あるが、それを無事終えた時の達成感と歓びの一時を楽しみ、それらが、人生の軌跡の中で星座のように輝きながら想い出として繋がってゆくのも良いものだと思う。

これからも、両親への感謝と申し訳のなさを胸に秘めながら、今後の英語論文を含めた学会講演や、また、眼病の啓発書の執筆等も、日常診療に役立てながら、少しづつ楽しく励んで行きたいと思っている。

 

 

 

平成19年4月15日

心のメダル

 夏の「甲子園」が終わり、秋も深まり、冬の訪れの中で始まる学生の三大駅伝は、10月の出雲での全日本大学選抜ロードリレー、11月の伊勢路での全日本大学駅伝、そして、正月の「箱根駅伝」であるが、全ては、最後の「箱根」に集約され、前二者は、ただの前哨戦といっても過言ではないであろう。20年程前に、テレビ放映されるようになってから、平均視聴率も毎年30%近くを維持し、全国で4000万人以上もが視聴するというこの「箱根駅伝」も、かつては、一部の熱心な駅伝と陸上ファンのものでしかなく、NHKラジオの実況中継が頼りであった。

私の学生時には、体育学部の長距離の選手達とも同じグラウンドで練習でき、学部の壁を越えて、練習方法のみならず、競技への姿勢や考え方までもを身近に学ぶことができ、今でも貴重な心の財産となっている。自分の場合、肉親との死別を契機に、その悲しみを忘れるように、ひたすら毎日走り続けて練習するようになり、毎月の走行距離も600キロを超え、恩師の沢木啓祐教授(日本陸連強化委員長)より、箱根駅伝合宿への参加を二度お許し頂いた。この「箱根駅伝合宿」は、心身共に苛酷な実体験であった。

練習と共に合宿所の中でも、大会前日に登録変更されて付き添いに回った選手達や合宿所の一台きりのピンク電話の前で監督からのメンバー交替の電話をじっと待ち続ける補欠の選手達に気遣いながら、出走する選手達の体調管理やサポートに努め、微力ながらチームの二連覇に貢献できたことは、人生の宝となっている。

あの時から25年が過ぎた現在でも、冬の訪れと共に「箱根駅伝」が恋しくなり、12月の下旬に登録メンバーと区間配置が発表されると、各校の戦力分析や補欠からメンバー変更で出走する選手を予想するのが楽しみだ。このため、前夜の元旦は、明日のレース展開を予想して寝付けないのも毎年である。 

昨年は、母校のチームが、往路優勝を遂げ、大差で復路の8区に入ったが、主将がまさかの大ブレーキを起こして、夢遊病者のような足どりで辛うじて9区に襷をつないだものの、総合優勝を逃してしまった。

この無念さを晴らすため、今年は、総合優勝に立ち合うために元旦に上京した。往路優勝を遂げた夜、箱根の母校の宿舎にも入って、監督とも対談することができた。自分が前夜考えた往路の変更区間と変更選手はすべて予想通りであった。復路も、6区(山下り)の変更区間は合っていたが、まさか6人目の4年生を投入するという監督の今年に賭ける決意には驚かされると共に明日の完全優勝を確信できた。

「箱根駅伝」で大切なことは、戦前からレースを想定しながら、前半は設定されたタイムを守りながら走って後半に余力を残し、後半は粘れるだけ粘って選手の力のすべてを使い切りながら、ブレーキなく20キロ余りを走り切ることである。

私も、かつての箱根駅伝の合宿時に、夢の中で走った7区(小田原→平塚間21キロ)の湘南路での快走をイメージしながら、日々の長丁場の外来診療も楽しく行うようにしている。

 当時は、メンバー入りも、そして、優勝メダルも遙か遠い彼方にあったが、現在の開業医生活の中でも、自分の力量に応じたテーマを決め、その小さな「心のメダル」に少しずつ近づいてゆく達成感と充実感が、私は好きである。

今年は、昨年の著書の出版に続き、さらに解りやすい2冊日の「眼の成人病」の解説書の粗原稿の執筆も終え、また、東洋医学会漢方専門医の更新のための症例報告集も完成させることができた。

また、今年の4月からは、母校・順天堂大学のスポーツ健康医科学の客員助教授として、栄養物質の摂取時の動体視力に関する研究に参加させて頂けることにもなった。

そして、今では走行距離もスピードも、かつての半分以下となったが、朝日を浴びながらの朝練2kmと夜の本練5kmのジョグを継続しているお蔭で、体調を維持でき、一度も診療を休まず、体重も競技生活時のベストより2〜3kg重い程度だ。

今後の厳しい医療情勢の中でも、心身の養生と健康管理に努めながら、小さな「心のメダル」を追いながら、笑顔で楽しく、焦らず、開業医人生と研究生活のラップを刻んでゆきたいと思っている。

 

 

 

平成18年10月15日

ある再会の後で

 一昨年の仲秋の頃、先の日本眼科医会副会長をつとめられ、最も歴史ある眼科病院の理事長である東京時代の恩師を、お供の方と雲仙の旅亭に迎えて、かつてのお礼をさせて頂いた。

 乳白色の温泉と心が安らぐような庭園、そして、洗練された食事に感動しながら翌日も平成新山などを観光して、恩師のご満悦の様子を伺いながら、自分でも「最高の接待ができた。」と内心で自画自賛していた頃だった。

お見送りする直前に頂いたのは、丁寧なお礼の挨拶と共に、「そう言えば、『眼の成人病』」という一般向けの家庭医学書を、現在の最新の医療も盛り込んで、先生と共著で出版したいのですよ。」とのお言葉であった。

 現在すでに、約30名近い医局員を抱え、多くの著名な眼科医との繋がりをもたれる恩師が、もう開業して9年にもなる自分を、なぜ共著者に指名されるのかとお伺いすると、旅先でも朝からジョグに励む姿を見て、“ファイトの塊”に見えたからだと言う。

そういえば、人を持ち上げて、目一杯働かせる事も非常にうまかった。恩師ご自身も、朝7時から夜11時までほぼ休みなしに働き続ける方であったが、人の能力を存分に発揮させ、無駄なく働かせる病院経営の神様でもあった。

お言葉をもらった時は、最終回に逆転サヨナラ満塁ホーマーを浴びた気分で、さすがに返事を留保したが、その後、後日手紙でも丁重に辞退しても、年末の休診中にも自宅まで直々に電話を頂くに及んで、さすがに引き受けることになった。

しかし、いざ執筆を始めようとしたものの当初は、なかなか筆が進まず、本当にまいってしまった。というのも、頂いた私の執筆項目は、「糖尿病網膜症」「白内障」「加齢黄斑変性」さらに、「レーザー光凝固治療」「眼と体によい生活習慣と栄養」の5項目で、いずれも最近新しい治療法が開発された分野や新知見が認められた領域のため、新たな勉強が必要になったためである。

この為、覚悟を決め、誘惑や雑用から離れ無心で集中できる空間を求めて、休日は県立図書館に通って、午前中から夕方まで、机に向かうようになった。文献や同類書を参考にしながら、基本的な自分のスタンスを考え、構成の項目に沿って浮かんだ草案をメモしながら、粗原稿を書き始めた。

誘惑や雑用からも離れ、無心で集中して取り組んでゆく濃密な時間のなかで、少しずつ執筆の仕事も進み、「やれる!」という自信に加え、小さな達成感が感じられるようになった。

今までの気分転換は、毎日のジョグに加え、温泉の小旅行や高校野球観戦、観劇やコンサート程度であったが、気分転換にはなっても、達成感と新しい自分を発見できるものではなく、これは新鮮だった。

そして、夕方5時に図書館が閉まると、その後は、隣の青年体育館のロッカーで着替えて江津湖の周囲を約1時間ジョグするのが気分転換であった。いつもの友人との運動公園でのジョグとは違って、小さな達成感を味わいながらの江津湖のジョグは、また格別だった。

冬は梅の花を見ながら「冬来たりなば春遠からじ。」を実感することができたし、春は桜花のトンネルの中を走り抜ける心地よさを感じることができた。

また、夏の江津湖に映える夕日も素晴らしかったし、秋の早い夕暮れも少し感傷的にさせてくれた。そして、いつも病診連携でお世話になっている病院のH副院長ご夫妻にもよくお会いできた。お二人で並んで散策されながら、静かに語り合うお姿は憧れの未来像だ。そんなジョグの中で、潜在意識の中から、ふと上手い校正案が湧き上がることも多かった。

 昨年は、6月まで日本抗加齢医学会の専門医試験の勉強も兼ねており、ダブル勉強は自分にとって少しきつかったが、なんとか気合いと気力で乗り越えることができた。

また、頭に浮かんだ草案をテープレコーダーに音声で入力し、それを職員に協力してもらいワープロ打ちしていくディクテーション作業により、大幅に原稿の作成も捗り、本当にありがたかった。

執筆の過程のなかで、日常診療面でも解りやすいカラーの治療用クリティカルパスも作成することが出来た。さらに、手術方法にも新しい工夫を取り入れ、手技も僅かながら向上できた。そして、自分が心に描いた文章やアイディアが具現化され、多くの方々の眼病の啓発のために少しでも役立てることも嬉しい。そんな様々な思いの詰まった著書も、いよいよ9月中に発刊となる。

そして、現在は、別の出版社からイラストを多く用い、Q&Aシリーズや患者さんの体験集、また治療のエピソードも加えたさらに解りやすい2冊目の眼病の家庭医学書を執筆中である。

今後の厳しい医療情勢の中でも、患者さんに喜ばれ、自分も楽しく診療を続けられるよう、少しずつ勉強を続けたいと思っている。

 

 

 

平成17年4月15日

三十余年目の出発 〜私の中・高寮生活時代の想い出より〜

 

 昨年、愚娘が中学に入学した頃から、自分の同年代の頃をよく思い出すようになった。私は、小学校まで山口県の山陰の萩地方の小さな町で育った。小5になる春頃より、算数の教科書の“先取り学習”に興味を持ち、勉強を楽しく感じ始めていた。その頃、地区の開業医のご子息が、鹿児島の有名私立中学に入学されたのを契機に、同地の医師会では、県外の私立中学進学ブームが起こった。こうして、小5の秋になると両親が私にも中学受験を勧める様になったが、折角自分なりの“先取り学習法”が当たった得意の時分で、いきなり受験参考書を読んでもさっぱり解らず、すぐに嫌になった。医師会長の父からは、「俺の顔に泥を塗るな!」と怒られ、母からは、「親の心子知らず」と嘆かれた。ただその反面、子供心ながらに田舎町の閉鎖社会には辟易していた部分もあった。

 小さな頃から、いつも医者の子として特別視され、飛び級の神童で元海軍軍医の父や町の初代首長で医師の祖父とよく比較された。そして、当時では、洒落たセンスの学校舎やクリスタルなデザインの校章にも魅了され、この閉鎖社会から“憧れの新天地”への脱出を夢見て中学受験を決意した。こうして、先輩に続き、同じ境遇の同級生も広島の私立中学へ、私は四国・松山の私立中学へと旅立った。

“新天地”の寮では、中高生約400人が生活していた。食事や規律、そして、風紀も厳しかった。テレビは30分以内、電話は赤電話一台で、勿論上級生が優先だった。しかし、そんな中でも“寮友”達は、笑いと夢で互いに励まし合っていた。「俺は、脳袖経外科の専門家になる!」「自分は、京都に行って海外留学する!」「俺は、大蔵省の官僚になって日本経済を動かす!」などの夢を、“寮友”達は、本当に全て実現していったのだった。彼らの意識レベルは高く、考え方もすでに大人で、ハングリー心も強かった。その面、自分は、稚拙にも親に反抗することを生き甲斐にして不勉強を重ねた。

一番きつかったのは、休暇を終え、休み明けの試験を前に帰寮する時期だった。帰寮する冬の日の朝、美しい海岸線を通り、山口線の超発点の益田駅に向かう途中、荒海の日本海から、雪混じりの風と波濤が押し寄せる。そんな中を両親は、駅のホームの車窓まで見送ってくれた。試験前で心は泣きたい気持ちだが、最後まで気丈を装う私を笑顔で見送ってくれるのだった。そして、列車は、渓谷沿いに中国山地へと登って行き、白銀に染まった小京都・津和野を過ぎて、山口駅へ滑り込み、ザビエル聖堂のチャペルから鐘の音が車窓にも届いてくる。両親がいつも学会で連れて行ってくれた憧れの瀟洒な街だった。そんな懐かしい想い出や郷愁が山口線の車内で胸中に去来していく。そして、終点の小郡(新山口駅)に近づくと山陽の平野が広がり、日も昇って陽光が差してくる。小郡駅での乗り換え時に、今も変わらぬ味の立ち食いうどんで、体を温め気合いを入れ直す。そこから、山陽線に乗り、徳山の石油化学コンビナート群を過ぎ、柳井港からの連絡船で四国・松山に渡る計6時間半の長旅だった。連絡船のフェリーのデッキに出て、瀬戸内の海と島並みを眺めながら、「これから、また一人でやっていくぞ!」と腹を決める。いつも、そんな「桶狭間の戦い」の繰り返しだった。 

この寮生活の体験は、開業医の「自ら決断し、自ら行動して、自分で責任を取る」という生き方の修練にもなった。また、食事や規律なども厳しく、やっとの思いで親が寮費を払う友人もいて、私も小遣いは月二千円程度しか使えなかった。この「清貧を宗とし、驕れる者は久しからず。」の教えのお蔭か、開業9年目となる現在も、自宅は中古の賃貸マンションで、自分の車も持たず、ブランド品は身に付けない。時計は千円デジタルでタバコも吸わない。それでも「寮生活」に比べれば天国だ。また、走ることの楽しみを知り、陸上競技の中・長距離に親しんだ。その後に迎えた肉親との死別も、“走る”ことで乗り越えることが出来た。現在も、朝夕で9kmのジョグを毎日楽しんでいる。

そして今、自分もあの時の両親と同じ年代になり、はるばる松山にまで送り出してくれた両親の気持ちがようやく心から解るようになった。あの状況の中で、最良の選択をしてくれたと思うし、もし自分が親でも同様に決断したと思う。これは、治療方針の選択と同じで、「タラ、レバ」は、結果論でしかないのだ。しかし、身を切る思いで折角の好環境に送り出してくれた両親への申し訳なさと稚拙だった自分への悔しさと不完全燃焼感は、ずっと心の底に淀んでいて消えなかった。だが、今は、その思いをエネルギーに変えて前進しようと考え努めている。                  

 現在は、自分にとって三つ目の専門医試験である日本抗加齢医学会の専門医試験の勉強に取り組んでいる。その分野は、基礎医学に始まり、内科全般から整形外科、皮膚科、眼科、スポーツ医学、栄養学にまで広範囲に及ぶが、今後、急激に進む超高齢化時代には、眼科医にとっても必須の医学であり、少しずつ学んでいる。それに併行して、一般の方向けの啓蒙書である「眼の成人病」というタイトルの本を、東京時代の恩師と共著で執筆中でもある。このため、休日も、県立図書館で勉強するようになった。誘惑や雑用からも離れ、無心で集中できる楽しさは、あの小5の時の“先取り学習”と同じ充実感だ。夢中で新しい知識の世界に滑り込んでいく楽しさ、そして、新しい知見に触れた時の充実感は、本当に心地好い。8年前の東洋医学の時は、いつもの「桶狭間の戦い」だったが、今度の初夏の「上洛」までは、こうしてゆっくり学びながら、少しずつ達成感を楽しみたいと思っている。また、本の執筆も出版記念パーティで恩師との祝杯を挙げる瞬間を楽しみにイメージしながら、根気強く頑張っていこうと思う。今年1月には、全国で1500万人以上もが悩む「ドライアイ」の患者さんへの画期的な治療用装器具を2種類考案し、特許申請して受付受理された。この様に、自分の心に描いた文章やアイディアが具現化され、世の中に役立っていくことも純粋に嬉しい。

 幼少時から、いつも「あなたは、開業医になるために生まれてきたのよ。」と優しく励ましてくれた母が、「人生は悠然と」との自書を贈ってくれた。その言葉をいつも忘れぬ様に、医療法人名にも「悠」の文字を入れた。人生には、三十余年も経ってやっと解ることもあるが、それでもいいと思う。そして、今後の健康保険制度の改悪や株式会社の参入など、どんな「医療の厳冬期」になっても患者様と共に歩み、笑顔で日々楽しく診療を続けられるよう、自分なりの努力を続けていきたいと思っている。

 

 

 

平成16年10月15日

音楽による抗加齢効果

 

 開業後も日々の診療の合間に、各種ジャンルの音楽をよく聴いて楽しく過ごしています。

 当初は、20代の頃によく聴いた竹内まりあ・松任谷由実や浜田省吾やサザンオールスターズ等の曲を学生時代の思い出と共に聴いていました。また、下積みの研修医時代にも、「今に見とけ!」と闘志を燃やしながらバナナラマの「ヴイーナス」などの曲を聴いたり、東京や横浜のディスコで踊ったことも、昨日のように思い出されます。

 音楽を聴くとその「タイムマシーン効果」で、心はいつも20代に戻っている様な気がします。そして、懐かしい曲を聴きながら蘇るのは、甘い思い出の学生時代や苦闘した研修時代から、いつもひたむきに生きてきた自分の姿です。「あの時代を頑張ったから今日がある。だから、今日も一生懸命頑張ろう!」と気持ちを盛り上げています。

 先日、稲垣潤一のコンサートに家内と一緒に出かけ、「思い出のビーチクラブ」や「夏のクラクション」など懐かしい曲を聴き、湘南で出会った20代の2人に戻った気分になりました。この夏は、長い真夏日が続きましたが、稲垣のCDを聴きながら夏の避暑旅行を楽しみに期待感を高め、盛夏期の診療やレセプト業務に加え、朝夕の走り込みも順調に消化できました。

 また、新しい曲も診療後のジョギング時に携帯ラジオのFMを聴いて、親しんでいます。今年の冬は、中島美嘉の超満員総立ちのコンサートにも家内と行き、心にしみる歌詞を声量いっぱいに歌う姿を生で見て感動しました。特に、「クレッセントムーン」の歌詞にある、「どんなに逆風だって私負けない。時代に潰されても二人で生き抜いていこうね。」という前向きな言葉が好きで今年の冬のテーマ曲として毎朝繰り返し聴きました。おかげで、真冬にも一度も体調を崩さず、元気に診療に励むことが出来ました。従来、音楽には、モーツァルトやバッハ等の揺らぎのあるメロディーを聴くことで、α波の脳波が増加し、情緒を安定させ免疫力を高める効果や、また、ポジティブな思考や行動に導く前向きな曲では、代謝の活性化によるダイエット効果等も報告されています。このため、自分も、日本抗加齢医学会の一員として、そのアンチエージング効果についても自験例で検討してみたいと思います。

 先日の同窓会でも友人から、「思考も顔も体型も全く変わってないな!」と冷やかされました。また、運動公園で走っていると、「大学生ですか?」とよく尋ねられ、清々しい笑顔で、「はあい。」とスポーツ青年らしく返しているこの頃です。

 そういえば、30年以上前に両親が月初のレセプトの点検時に、机を並べて手作業をしていたのを思い出します。当時は、レセコン等まだ無く、修正は、インクを丁寧に砂消しゴムで消して修正する、現在より遥かに根気のいる手作業で、「ああ紅の血は燃ゆる」や「若い血潮」等の軍歌が繰り返しレコードから流れていた光景を子供心に覚えています。この様に、音楽は、その時代その時代の人の心の応援歌にもなるのでしょう。

 今後も開業医にとって、益々厳しい医療情勢が続きますが、音楽と親しみながら、笑顔で楽しく日々の診療に励んで参りたいと思います。

 

 

 

平成16年4月15日

「厳冬期」にも笑顔で粘り強く生きるために

 

 医療の「厳冬期」にも笑顔で粘り強く診療を続けてゆくために、3年前から継続した走り込みを始めました。自分の学生時代には、陸上部の長距離競技で、恩師の澤木啓祐教授(現日本陸連強化委員長)の厳しいご指導を頂き、毎朝登校前に5キロ、授業を終えて夕暮れの神宮外苑を毎日20キロと月間600キロ以上を走破する練習を続け、箱根駅伝合宿にも2度参加した時期がありました。

 しかし、小院開業前後のブランクもあり、最初はゆっくりと歩くような速さで5キロから姶めました。余分なストレスや活性酸素を創り出さないために、今でもゆっくり時間をかけて走り、体脂肪を燃焼させています。現在は、毎朝に彼方の九州山地の山々を眺めながら、木もれ日の朝日を浴びて隣の運動公園を3キロ走り、ダンベルトレーニングを行っています。そして、夕方は、友人やMRの方と一緒に雁回山に沈む夕日を眺めたり、星座や月を見ながら、携帯のFMラジオを聴いて7キロ程のジョギングを楽しんでいます。朝のトレーニングの後はシャワーを浴び、バッハの曲を聴きながら瞑想し、爽快な気分と笑顔で患者さんの診療を楽しく行っています。また、夜のランニングの後は好きな音楽を流し、半身浴をしながら今日の事は忘れ、優しい医療情報の本を読み、明日の診療に役立てるようにしています。

 さらに、眼科特有の外来診療や顕微鏡手術の影響で、前弯しがちな姿勢を正すため、3ケ月前からはスポーツジムで、週1回専門のトレーナーの個人指導による上体部の筋トレも始めました。肩甲骨の周囲や上腕及び腹筋・背筋と大腿筋を強化することで姿勢も少し良くなり、また、上半身の贅肉も絞れてきました。そして、かつての競技生活時の最適体重を今も維持でき、体肪率も現在11%までになりました。

 一方、食事面も、外食は週2回までとし、平素は野菜・海草・大豆製品・キノコ類・ヨーグルト・りんご・小魚等を毎日欠かさず摂るようにしています。特に野菜は、抗酸化力の強いカロチノイド系の摂取を意識して、緑黄色野菜を中心に16種類以上を毎日800g以上食べています。しかし、淡黄色野菜にも「ファイトケミカル」という白血球の免疫能を向上させるカがあることを知り、この冬は意識して長ネギ・白菜・ショウガ等も努めて食べ、体も温まりました。また、就寝時間や睡眠時間等にも留意するようにしています。予防検診では、医師会の検診でも幸い異常なしでした。加えて、魚住秀昭先生の「PET」検診も興味をもって受け、やはり異常なしで安心しました。その患者本位の素晴らしいアメニティーにも感動しましたが、検査終了後、阿蘇の山々を望む広い窓から陽光が差し込む回復室で、用意された彩とりどりのお菓子を好きなだけ楽しみ堪能しながら、健康の有り難さにも感謝しました。

 今後も、厳しい医療情勢が続きますが、「厳冬期」にもいつも笑顔で、粘り強く颯爽と診療を続けられるよう体調管理と心身の持久カの向上に努め、励んで参りたいと存じます。

 

 

 

平成14年10月15日

患者負担増の制度改悪を許すな

 

 このたびの健康保険制度の改悪という暴挙に対し、熊本県保険医協会会長・上塚高弘先生のご指導を賜り、熊本日日新聞の読者の広場の「主張・提言」の欄に以下の文章を投稿しましたので、ご報告致します。

「熊本日日新聞 平成14年9月23日朝刊掲載」

国民の負担増を中心とする健康保険制度の改定法案が、無修正のまま与党3党だけの強行採決で、可決された。高齢者は、10月から外来での1割(一定所得以上は2割)負担が必要になり、また、対象年齢も今後は75歳まで段階的に引き上げられることになった。さらに、月毎の上限の額も大幅に引き上げられ、しかも、上限を超えた額は、患者さんの立て替え払いとなり、翌月に役場の窓口で申請後、2ケ月後にようやく払い戻しになるという償還払い制度になった。同時に、外来での定額制(現在850円)も撤廃となった。このため、高齢者は、医療費をいくら用意していけばよいか分からず、費用の手出しを恐れて、受診を手控え、その結果病状を悪化させる最悪のケースも多く出てくるものと懸念される。

 眼科医療においても、放置すれば確実に視覚障害につながる糖尿病性網膜症や緑内障などの患者さんが、この改定以降、診療を中断し、早期治療ができず、手遅れ失明となるような悲劇も想定され、長期的には、かえって医療費の増大を招くことも憂慮される。さらに、償還払いの事務手続きも一人暮しや寝たきり、痴呆等の方には、現実的に無理があり、払い放しのまま、泣き寝入りになることも多々予想される。

 小泉首相は「これからは、負担は軽く、給付は重くとはいかない。」との発言を繰り返しているが、国際的にみても、先進7ケ国(G7)の中で、社会保障費を減らしているのは日本だけであり、事実、老人医療費は、過去15年間に10%も削減された。さらに、来年以降も患者負担増の改悪が予定されている。

 医療費を守る財源は、無駄で異常に多い公共事業費を削減したり、不当に高い薬価を適正化する等の手段で確保できる。これ以上患者負担を増やし、高齢者など弱者の立場を軽視し、福祉を切り捨てる政治を許すべきではない。

 

 

 

 

 

 

平成13年4月1日

『開業医生活の中で感じる「予感」』

 

 平成8年の夏に小院を開院致しましてから、早4年半が過ぎようとしています。これまで、当地域の諸先生方のご指導とご支援を賜り、何とか日々無事に診察を続けております。

そんな新規開業医5年生の生活の中でも、病状が気になる患者さんのことが、自分の潜在意識の中に日々存在し、微妙な予感が当たるのを時々経験するようになりました。

例えば、ある重症のぶどう膜炎の患者さんを大学病院に紹介させて頂いたのですが、約1ケ月たった頃その方の病状がどうしても気になり、ご由宅に連絡したところ、昨日退院して自宅に戻って来たのだと電話口で嬉しそうに話してくれたことです。また、別の気難しい患者さんのことを、前夜にふと思い出していると、その方が翌日の診察に数ケ月ぶりに来院されるといった様なことも時折り経験するようになりました。

 このような予感や微妙な感覚は、開業医にとって知識の修得と共に非常に大切な生命線であり、体調を整え、平常心で診察に精進してゆくことで、この感覚を今後も大切に持ち続けてゆきたいと思っています。

 そういえば、一昔前、私がまだ小学生の頃、山陰の小さな漁港の町で内科の開業医をやっている父が、「少しおかしいな」という微妙な予感のもとに、丁寧な触診と]線だけで何例もの早期胃癌を発見したと私に話してくれた事が想い出されます。また、小児科と産婦人科医の母から「ムンテラ」という言葉を聞いたのもその頃でした。

 そして、「少しずつ必ず良くなると患者に笑顔で説明すると本当に良くなっていくものよ。」と何か確信したような眼差しで私に語ってくれたことを想い出します。

 その時は、子供心では信じられず、反発して言い返していた自分ですが、三十余年を経て、開業医を経験しながら少しだけ解りかけてきたこの頃です。

 これからも、このように奥深く素晴らしい開業医の仕事を天職として、患者さんを大切に、一日一日を無心に診療できるよう心掛け努めて参る所存であります。