三十余年目の出発 ~私の中・高寮生活時代の想い出より~
院長エッセイ
昨年、愚娘が中学に入学した頃から、自分の同年代の頃をよく思い出すようになった。私は、小学校まで山口県の山陰の萩地方の小さな町で育った。小5になる春頃より、算数の教科書の“先取り学習”に興味を持ち、勉強を楽しく感じ始めていた。その頃、地区の開業医のご子息が、鹿児島の有名私立中学に入学されたのを契機に、同地の医師会では、県外の私立中学進学ブームが起こった。こうして、小5の秋になると両親が私にも中学受験を勧める様になったが、折角自分なりの“先取り学習法”が当たった得意の時分で、いきなり受験参考書を読んでもさっぱり解らず、すぐに嫌になった。医師会長の父からは、「俺の顔に泥を塗るな!」と怒られ、母からは、「親の心子知らず」と嘆かれた。ただその反面、子供心ながらに田舎町の閉鎖社会には辟易していた部分もあった。
小さな頃から、いつも医者の子として特別視され、飛び級の神童で元海軍軍医の父や町の初代首長で医師の祖父とよく比較された。そして、当時では、洒落たセンスの学校舎やクリスタルなデザインの校章にも魅了され、この閉鎖社会から“憧れの新天地”への脱出を夢見て中学受験を決意した。こうして、先輩に続き、同じ境遇の同級生も広島の私立中学へ、私は四国・松山の私立中学へと旅立った。
“新天地”の寮では、中高生約400人が生活していた。食事や規律、そして、風紀も厳しかった。テレビは30分以内、電話は赤電話一台で、勿論上級生が優先だった。しかし、そんな中でも“寮友”達は、笑いと夢で互いに励まし合っていた。「俺は、脳袖経外科の専門家になる!」「自分は、京都に行って海外留学する!」「俺は、大蔵省の官僚になって日本経済を動かす!」などの夢を、“寮友”達は、本当に全て実現していったのだった。彼らの意識レベルは高く、考え方もすでに大人で、ハングリー心も強かった。その面、自分は、稚拙にも親に反抗することを生き甲斐にして不勉強を重ねた。
一番きつかったのは、休暇を終え、休み明けの試験を前に帰寮する時期だった。帰寮する冬の日の朝、美しい海岸線を通り、山口線の超発点の益田駅に向かう途中、荒海の日本海から、雪混じりの風と波濤が押し寄せる。そんな中を両親は、駅のホームの車窓まで見送ってくれた。試験前で心は泣きたい気持ちだが、最後まで気丈を装う私を笑顔で見送ってくれるのだった。そして、列車は、渓谷沿いに中国山地へと登って行き、白銀に染まった小京都・津和野を過ぎて、山口駅へ滑り込み、ザビエル聖堂のチャペルから鐘の音が車窓にも届いてくる。両親がいつも学会で連れて行ってくれた憧れの瀟洒な街だった。そんな懐かしい想い出や郷愁が山口線の車内で胸中に去来していく。そして、終点の小郡(新山口駅)に近づくと山陽の平野が広がり、日も昇って陽光が差してくる。小郡駅での乗り換え時に、今も変わらぬ味の立ち食いうどんで、体を温め気合いを入れ直す。そこから、山陽線に乗り、徳山の石油化学コンビナート群を過ぎ、柳井港からの連絡船で四国・松山に渡る計6時間半の長旅だった。連絡船のフェリーのデッキに出て、瀬戸内の海と島並みを眺めながら、「これから、また一人でやっていくぞ!」と腹を決める。いつも、そんな「桶狭間の戦い」の繰り返しだった。
この寮生活の体験は、開業医の「自ら決断し、自ら行動して、自分で責任を取る」という生き方の修練にもなった。また、食事や規律なども厳しく、やっとの思いで親が寮費を払う友人もいて、私も小遣いは月二千円程度しか使えなかった。この「清貧を宗とし、驕れる者は久しからず。」の教えのお蔭か、開業9年目となる現在も、自宅は中古の賃貸マンションで、自分の車も持たず、ブランド品は身に付けない。時計は千円デジタルでタバコも吸わない。それでも「寮生活」に比べれば天国だ。また、走ることの楽しみを知り、陸上競技の中・長距離に親しんだ。その後に迎えた肉親との死別も、“走る”ことで乗り越えることが出来た。現在も、朝夕で9kmのジョグを毎日楽しんでいる。
そして今、自分もあの時の両親と同じ年代になり、はるばる松山にまで送り出してくれた両親の気持ちがようやく心から解るようになった。あの状況の中で、最良の選択をしてくれたと思うし、もし自分が親でも同様に決断したと思う。これは、治療方針の選択と同じで、「タラ、レバ」は、結果論でしかないのだ。しかし、身を切る思いで折角の好環境に送り出してくれた両親への申し訳なさと稚拙だった自分への悔しさと不完全燃焼感は、ずっと心の底に淀んでいて消えなかった。だが、今は、その思いをエネルギーに変えて前進しようと考え努めている。
現在は、自分にとって三つ目の専門医試験である日本抗加齢医学会の専門医試験の勉強に取り組んでいる。その分野は、基礎医学に始まり、内科全般から整形外科、皮膚科、眼科、スポーツ医学、栄養学にまで広範囲に及ぶが、今後、急激に進む超高齢化時代には、眼科医にとっても必須の医学であり、少しずつ学んでいる。それに併行して、一般の方向けの啓蒙書である「眼の成人病」というタイトルの本を、東京時代の恩師と共著で執筆中でもある。このため、休日も、県立図書館で勉強するようになった。誘惑や雑用からも離れ、無心で集中できる楽しさは、あの小5の時の“先取り学習”と同じ充実感だ。夢中で新しい知識の世界に滑り込んでいく楽しさ、そして、新しい知見に触れた時の充実感は、本当に心地好い。8年前の東洋医学の時は、いつもの「桶狭間の戦い」だったが、今度の初夏の「上洛」までは、こうしてゆっくり学びながら、少しずつ達成感を楽しみたいと思っている。また、本の執筆も出版記念パーティで恩師との祝杯を挙げる瞬間を楽しみにイメージしながら、根気強く頑張っていこうと思う。今年1月には、全国で1500万人以上もが悩む「ドライアイ」の患者さんへの画期的な治療用装器具を2種類考案し、特許申請して受付受理された。この様に、自分の心に描いた文章やアイディアが具現化され、世の中に役立っていくことも純粋に嬉しい。
幼少時から、いつも「あなたは、開業医になるために生まれてきたのよ。」と優しく励ましてくれた母が、「人生は悠然と」との自書を贈ってくれた。その言葉をいつも忘れぬ様に、医療法人名にも「悠」の文字を入れた。人生には、三十余年も経ってやっと解ることもあるが、それでもいいと思う。そして、今後の健康保険制度の改悪や株式会社の参入など、どんな「医療の厳冬期」になっても患者様と共に歩み、笑顔で日々楽しく診療を続けられるよう、自分なりの努力を続けていきたいと思っている。