『真夏の台風直下の学会講演』
院長エッセイ
昨年から、眼病の解説書を出すようになり、また、今年から、母校の大学との研究も始めるようになってから、他の学会からも、招待講演の話も頂けるようになった。
過日には、日本臨床細胞学会から7月14日の九州ブロック総会での招待講演のお誘いを頂いた。「いつも顕微鏡での仕事をされる医師やスタッフの方々に、眼に良い生活習慣や栄養療法について、約1時間の講演をして頂きたい。」と言われ、すぐに快く引き受けることにした。
平素の講演会などで質問する時も、まず最初に手を挙げてから、質問内容を考えるといういつもの性格からか、直前にならないと気合いが入らない。しかし、恩師の井上治郎博士のご教示を糧とし、講演のストーリーの展開をあれこれ考えながら、スライドの原稿を、少しずつ頭の中で練りあげ、スライド校正も、いつも通り1週間前までに終えることができた。4日前には「予演会」も無事に終了し、準備万端で、アシスタント役の友人と、当日は意気揚々と入鹿する予定だった。
しかし、予演会を無事に終えた翌日から、台風4号が講演当日の午後に鹿児島を直撃するとの情報が入り、愕然としたのはご想像の通りである。学会が中止になるのか、事前に事務局に問い合わせても、平然と「予定通り行う予定です。宜しければ、宿の手配をするので、演者の先生は、前日までに入鹿して下さい。」と言う。このため、日帰りでの講演を諦め、前日の診療を終えてから、夜半前に「つばめ」で入鹿し、城山のホテルに泊まることにした。
鹿児島に入ると、雨風も少しずつ強くなっているのを察したが、翌日目を覚ますと、やはり台風4号が直撃の様相を呈していた。
講演は、同日午後2時で、台風が最も接近する時間帯であった。
朝から、温泉で体を温め、講演原稿を繰り返し読みながら、一通りの最終校正を終えると、講演前にいつも行う儀式として、数十分のジョギングをすることにした。屋外はすでに嵐の様相を呈して不可能なので、広いホテルのフロアを往復しながら、いつものスウェットウエアでのジョギングで、心地よい汗を流し、リフレッシュすることができた。
そういえば、家内との出会いの地・横浜での学位研究の講演の時も、二人でよく訪れた「港見える丘公園」を走ったものである。
台風の中、予定通り昼過ぎに、県民交流センターの巨大な学会場に到着すると、手厚くおもてなしを受けた。
まるで、お殿様気分だ。参加者予定数は、医師と医療関係者を含め、約400名とのことであったが、当日は、JR、高速バス、航空機、そして、船舶が、共にすべて運休のため、約100名程度の聴衆であったが、会場内では、予定通り何もなかった様に行われているのが、かえって驚きであった。
そして、いつも通り、自分の持ち味を生かしながら、大きな声で解りやすく楽しく講演を終えることできた。
私の学会講演のルーツは、小学校2年生の夏休みの研究発表にさかのぼる。
両親の心遣いで、愚息が将来、学会講演をする際に困らないようにと、学会発表の手ほどきをしてくれたのであった。
そして、小2の時の研究発表で、金賞が取れなかった事もあり、小3になると発表前には、父親に連れられて、街を見下ろす小高い山の山中での発声練習を半日かけて行った。木々の間から見える初秋の萩の静かな街並みと蒼いコバルト色に輝く日本海が、まだ瞼に残っている。
そして、発表会の直前には、確実に暗唱するまで、飽きる程、発表原稿を音読させられた。
さすがに、原稿の暗唱には、子供心に辛いものがあった。遊び盛りの頃に、「どうして、なぜ自分だけ?」という思いが断ち切れずに、原稿の文字が涙でにじんで見える事もあった。しかし、そのお蔭か、今までの講演で“あがった”ことは一度も経験していない。
そんな遠い記憶と共に、講演終了後に、感謝状を頂いた時の気持は、まるで、かつての全校マラソンで優勝した時の表彰台の気分だった。そして、学会後の懇談会も、台風の余波などもろともせず、大勢が楽しく参加してとり行われた。最後には、「おはら節」を老若男女全員で踊り、楽しく閉会に至った。
学会発表の中での苦労は色々あるが、それを無事終えた時の達成感と歓びの一時を楽しみ、それらが、人生の軌跡の中で星座のように輝きながら想い出として繋がってゆくのも良いものだと思う。
これからも、両親への感謝と申し訳のなさを胸に秘めながら、今後の英語論文を含めた学会講演や、また、眼病の啓発書の執筆等も、日常診療に役立てながら、少しづつ楽しく励んで行きたいと思っている。